うつの幼少期

うつ

 雨の日が続いてますね。
 お久しぶりです、ナマケモノです。

 今回は私の雑記というか、心情を話したいと思います。
 次回で伝えるといった、鬱になる要因に関わる1点を、深く話すかたちとなります。

 鬱になる要因は、また別の回に記載します。それとは別に、鬱になりやすい体質、というものがあります。
 それは合計2つ。

①DNA遺伝子によるもの
②幼少期の環境によるもの

 ①DNA遺伝子によるもの
  こちらはわかりやすく言えば、ガン細胞と同様ですね。
  親族にガンになられた方がいて、血がつながっていればなりやすい現象。そちらと同様です。

 ②幼少期の環境によるもの
  こちらは、わかりやすくいえば子供のころどのような環境で育てられたかによります。
  ストレスが多い環境にいればいるほど、鬱を発症しやすくなります。

 今回は、私、うつナマケモノの②幼少期の環境と、今の心情について少し話させてください。

うつナマケモノの幼少時代(学校環境)

 私は昔は内気な子どもで泣き虫でした。だからでしょうか、よくイジメのターゲットになりました。
 最初は住んでるマンションの小学生のグループで、次に小学校2年生のクラスで、小学校4年生のクラスで。何度も、何度もあいました。

 けれど、この頃は平気でした。イジメられても、遊んでくれる友達は、確かにいたからです。

 小学校6年生の夏。地方をまたいで、大掛かりな引っ越しをすることになりました。
 当時私は口調に強く地方弁が残っていました。

 それが気にくわなかったのでしょうか、小学校6年生の転入後の2学期、クラス全員からイジメを受けました。男女問わずです。
 バイ菌扱いされました。グループを外されました。何もないのにニヤニヤヒソヒソ笑われました。私の地方弁をマネして馬鹿にされました。彼らは何が楽しかったのか、いまだにわかりません。

 勇気をもって、私は担任の先生に相談しました。「イジメを受けている」と。
 返ってきた言葉は、予想もしない言葉でした。

 ――「先生もいじめられたくないから、言わないで」

 バッサリとそう言い捨てて、先生は助けを求めた私の手を振り払いました。

 確かに当時、私が所属していたクラスは、学級崩壊をしていました。
 先生の授業の時、皆、歩き回ったり固まったりして遊んでいました。
 これ以上荒波を立てたくなかったのでしょう。ですがはっきり言って、教師として失格です。教壇に立つ資格はなかったと、断言できます。

 私は先生の発言以降、こんな人間に割く時間は無駄だと思い、読書をしていました。

 以上のことから、私に学校での居場所はありませんでした。

うつナマケモノの幼少時代(外環境)

 私は親の意向から、中学受験を強制されてました。
 その受験合格のため、塾に通っていました。

 小学校6年生の夏まで、塾友達と仲良く通っていました。
 けれど、引っ越しにより当然ながら塾も変わりました。

 そこでも、受験の5か月前の入塾ということもあり存在が浮き、無視の状態でした
 けれど、学校よりかはましでした。バイ菌扱いも、クスクス笑いもされないのですから。

 ただ、息が詰まる環境。そんな場所で、勉学と向き合ってました。

うつナマケモノの幼少時代(家庭環境)

 我が家はいわゆる転勤族でした。
 小学校6年生までも、県内をあちこち引っ越しました。

 小学6年生になって引っ越しをしました。父は、職場環境が変わったことのストレスからか、母と私によく当たるようになりました。暴力、DVこそないにせよ、家庭内モラハラはありました。

 「誰のおかげで住めると思ってるんだ!」
 「誰のおかげで学校に行けると思ってるんだ!」

 罵声が、私に降りかかります。

 もともと父は、私に八つ当たりをする人物でした。
 小学3年生のときも、塾の問題がとけず、30cmものさしを振り上げかざされました。机を強くたたき、次はお前の番だと言わんばかりに怒りに顔色を染めるのを覚えています。この日は、朝から機嫌が悪い日でした。
 振り上げたものがスリッパのこともありました。私はゴキブリ以下だったのかもしれません。

 私には弟がいます。しかし、弟には八つ当たりや注意ができませんでした。
 何か言うとパニックになり、「あー! あー! あー!」と頭をかきむしったり、暴れるからです。そう、いわゆるグレーな子・・・・でした。

 さすがに弟に注意するのはまずいと思ってる父と母は、弟への注意を私にしたり、そのうっ憤を晴らすためにくだらないことで怒鳴りました。

 私は毎日毎日、息をひそめました。何もしていなくても、弟のことで怒鳴られるのですから。ささいなことでも、火事を起こしてしまったかのような怒り方をしました。

 親にも、学校でのイジメのことは話しました。ですが、まともに取り合ってくれませんでした。

 むしろ八つ当たりで父から怒鳴られて泣いていると、父は『悔しかったら(中学)受かってみろ!!』という始末。

 家でも居場所がなく、もう嫌気がさした私は、秋か冬の夜9時に初めて家を出ました。
 近くに大きな県立の公園があり、内部にホームレスの方々の住居があることを知っていた私は、あえてその周辺の道を歩きました。

 ――死にたかったからです。

 道路に出ました。夜道に、明かりがいくつも通り過ぎます。そこを飛び出そうとしても、どうしても踏ん切りがつきませんでした。

 ――もしも、生き残ったら? また怒鳴られて、ますます悪化するかもしれない。

 生き残る可能性を考えたら、動けなくなりました。

 結局、1時間半ほど外を出歩いて帰ったら、母に怒られました。
 今でこそ心配して叱ってた(つもり)と、母本人には聞きましたが、当時の私には、世間体を気にしてまた怒ってる、としか思えませんでした。
 奥のリビングに行く母と入れ違いで、弟が来ました。

 そして、一言。

「あと1時間で警察呼ぶつもりだったんだよ。迷惑かけるなよな」

 その一言で、すべてが崩れました。
 糸が切れた音が、聞こえました。

 息をのみ、私はすぐに自室に入りました。布団にもぐり、頭までかぶりました。
 真っ暗の中グルグルグルグル思考が巡ります。

 『なぜ、そこまで追いつめてると思わないのか』
 『あんたの代わりに、私が怒られてんのに、なんでそんなこと言うんだ』
 『なんで、私が父と母の怒りのはけ口になんなければいけないのか』
 『なんで、家ですら息を詰めないといけないのか』

 『なんでイジメられてるんだ』
 『なんで先生は助けてくれないんだ』

 いろんな「なんで」が、頭をめぐりました。
 涙が自然とこぼれました。嗚咽おえつも出ました。ですが決して、大声で泣いてはいけません。「うるさい」と、また怒鳴られるからです。

「私は、誰にも求められてないのにどうして生きているんだろう」
「私は、生きたくなんてなかった」
「さっきの家出で死にたかった」
「どうしてこんなつらいんだろう」

 ――ああそうか

「感情があるからか」
「なら、痛みや苦しみや悲しみも全部感じなくなっちゃえばいいのに」
「壊れちゃえ」「壊れちゃえ」「壊れて」「壊れて」「壊れてくれないとつらい」「もうつらいのは嫌だ」

 たぶん、この瞬間だったんだと思います。

 私の中で、痛みや苦しみ、悲しみに関する感性が壊れたのが。

 私はいまだに、自分の痛みや苦しみ、悲しみの感情が鈍いです。
 限界を迎えてから、勝手に涙腺が崩壊して泣きますし、倒れるようになりました。

 また、自分自身のことも、正直、いまだにどうでもいいと思っています。

 「中学受験が合格したら生きよう」と考え、不合格なら死のうと思っていました。
 不合格なら、イジメっ子と同じ中学に通うことになるからです。
 それは耐えきれませんでした。

 結果、中学受験は合格し、今生きているわけです。

 今でこそ、長い年月をかけて親とは和解をしております。母の父からのモラハラ洗脳を解く、弟をまともに調教するなど、色々なことがありました。

 ですが、一度割れた心はもう元には戻りません。そう、私の心は、どこか穴が開いたままです。

最後に

 あくまでも一例ですが、私の幼少時代をケースとして挙げさせていただきました。
 このようなつらい幼少期を過ごした方は、鬱になってしまう素質が残念ながらあるので、十分にご注意を。

 長々と私の雑記を読んでくださり、ありがとうございました。
 次回も読んでいただけたら幸いです。ではまた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました